蒙昧に対する怒りの表明

子供の頃、大人とその社会は神のように見えた。私には見えない大きな何らかの機構の中から給与を稼ぎ出してくるすべ、自動車の運転の仕方、料理を習得する方法とその技量、美容院の予約の方法、私にはよく理解できない不思議な知人のネットワーク、これらを、彼らはどうやって身につけたのだろう。彼らは私にはまったく理解できない、どうやって習得するのかも見当も付かないそれらのことがらを身につけて、当たり前にその力を行使していた。全知全能であるように見えた。

今は、そうでないことを知っている。彼らは私と同じ等身大の人間であって、私は必要とあらば彼らと同じ力を揮うことができる。まだ身につけていない分野は数多くあるけれども、それらをどうやって習得すればよいのか知っている。

そして彼らが構成する社会も構成物も。すべての仕組みは私と同じ人間が作り上げたものである。

魔術について

子供の頃、経済システムは理解不能な魔術であった。どうやって富は循環し、私の処へお小遣いがやってくるのか。私は、それをリヴァイアサンの仕業であるかのように捉えていた。Win32APIは魔術であった。どうやってこの不思議な機能が実現されているのか、私は神に等しいマイクロソフトのなせる技であると理解していた。

今は、そうでないことを知っている。種々のネットワークプロトコル、スケジューリングアルゴリズム、ハードウェア制御、CPUの命令実行の仕組み、論理回路トランジスタの原理、物語の祖、ウォーターフォールの由来、科学思想の発展に見られる形態、一般的な商慣習、贈与経済について、熱交換について、円運動とピストン運動の変換について、犯罪被害者の落ち度を探したくなる心理の由縁、を学んだ。見た。考えた。

どれも、人間が作ったものだった。理解を超えたものを何らかの超越的なブラックボックスに押しつけることはやめた。なるほど未知の分野であれば、それは今の私にとってブラックボックスではあるかもしれない。しかし、超越的な存在ではない。

理解と支配と変革について

だから、すべては人間が作り上げたものなれば、必要であればそれを変革することができる。私が原理上理解しえないものはない。投資とリターンの問題だ。私の手持ちの資金と時間を鑑みて、十分な投資が可能であってリターンが望めるならば、理解し、変革すればよい。世の中に、私が普段意識しない、知りもしない仕組みはあるだろうが、それを改善する必要があるならば改善すればよい。必要であれば私は時間と資金を費やしてそれを理解できる。

私は現在、投資判断の下に「性同一性障害者の被抑圧構造」「東京を中心とするソフトウェア技術者のエコシステム」「Ruby」に時間と資金を注ぎ込んでいる。

要素が絡みあった複雑な問題を解決できる、ということを私は知っている。沢山の構成要素から成るカオスティックな問題に摂動を加えて制御できる、ということを私は知っている。曖昧な問題設定を具象化し解を導いていくことができる、ということを私は知っている。すべての要素が自明であってただ高度な抽象的思考が駆動するのを待っているだけの問題を、それが自明と思えるまで知性を尽くすことができる、ということを私は知っている。人間関係に分け入って整理し調整することができる、ということを私は知っている。

環境について

だから、所与の環境などというものは存在しない。すべては、私が選択した、あるいはコストを評価して肯定したものだ。あるいは私が変革しつつあるものだ。それは私と同じ人間が作り上げたものなれば、私はそういった姿勢で接するのだ。

私は破壊者ではないから所与の環境をむやみに否定するものではない。けれども、環境を肯定することと、環境を所与のものとして自明視することは別である。自らの現実的な限界を知って投資判断することと、超越的なものの前にひれ伏すことは別である。環境を超越的ブラックボックスによる自明なものであると認識するのは、それはとても幼い振る舞いであると私は考える。子供の頃の私のように。

思考について

子供の頃、疑問に思ったことがあった。天文学者が望遠鏡を受け入れるまでに、何故あんなに時間が掛かったのだろうと。望遠鏡を地上に向ければその機能は把握できるのだから、それを天体に外挿することは容易ではないかと考えた。だが、当時の人々にとって天界は神という超越的ブラックボックスの原理が支配するものであった。投げれば落下する定めにある地上の物体に対する発見を、虚空にあって規定の運動を永続する天体に適用するのは大きな論理の飛躍であったに違いない。天体と地上が同じ原理によって支配されているという発見こそがニュートンの功績であった、という。

かつての天文学者木星系を信じられず、幼い日の私がそうした天文学者を理解できなかったのは何故か。思考の枠組み自体が異なっているのである。環境の由来を超越的な存在に求める発想は思考の枠組みを変容させる。今ある伝統、社会、システム、テクノロジーを自明視してその原理を超越者に委ねるならば、私たちは望遠鏡もなく恒星の固有運動など発見もできず、周点円の重なる天球に閉じこめられるだろう。

可能性について

環境を超越者による所与のものと信仰するのは、ニュートン以前への先祖返りに他ならない。どんなシステムであれ、それは人間が作った同じ人間の原理によって成立している。だから、不合理を不合理のままにしておく必要はない。その認識に元に思考する方がいつでもより有益な結論を出せることだろう。

パンがなければパンを焼けばいいじゃない。小麦がなければ小麦が出回る社会を作ればいいじゃない。不作ならば農地を改善すればいいじゃない。農地がなければ開墾すればいいじゃない。労働力が足りなければ機械化すればいいじゃない。