文字コードは捕鯨問題だという説

「神は細部に宿り給う」の「 ガイア教の天使クジラ 」シリーズを楽しみに読んでいる。捕鯨問題とそれによる日本叩き、その深層にあるのはキリスト教+人種主義が衰退したなれの果てである「ガイア教」の存在がある、という主張がキーだ。

そして、考えていてふと思った。メリケンが「Unicodeで統一だhehehe」とか平気でアホなことを言えるのは、もしかして私が「クジラは神聖な動物だ」という主張を理解しがたいのと同じ構造なんじゃないか。それが宗教的な世界認識と魂の安息に関わる思想史を背負った問題であって、にも関わらず当事者が敢えてそれを「宗教だ」と言うことが少ないので、「宗教」という枠を嵌めれば認識可能な問題を認識できずにいるのではないか。ガイア教徒にとってのクジラの神聖性を理解できないように、彼らにとっては「渡邉でも渡邊でもいいじゃないか」と理解不能なのでは? 言霊、文字による実体の支配、線の1本、留め撥ねの1つに懸ける想い。

いや、正直、文字コードの問題にどっぷり浸ってる人の主張は私にも今ひとつ分からなかったりするけど。