鬼頭莫宏はむしろ高河ゆん

鬼頭莫宏は鳥山明に似ている 」より

鬼頭莫宏も同じで、いかに読者の注目を集めるか、興味を持続させるかというあたりを最優先にしている印象がある。ベクトルは正反対だけど、エンターテインメントのみを指向しているという点で鳥山明と似ている

昔、岡田芽武がインタビューで「その瞬間に自分にとってカッコいいものだけを書いている」というようなことを言っていた。ストーリーとしての整合性は最優先の事項ではないのだと。確かにね、彼の作風は(あとから伏線として回収できているものもあるにはせよ)どうしても後出しじゃんけんの粗が目立つように感じていた。そのインタビュー(アフタヌーン誌上だったと思う)を読んだときは、それって威張るようなことかと疑問を持ったものだった。

ただ、エンターテインメントとしては、あるいは断片的な語りの中で何かを伝えようとする行為としてはそれもアリなのではないかと後で感じた。それは高河ゆんを本格的に読み始めたときのことだ。高河ゆんもストーリーのうまい作家ではない。長編では大抵ストーリーが破綻する。その破綻具合は岡田芽武よりひどいと言っていいだろう。でも、私は高河ゆんが好きだ。彼女が描くキャラクターが強く自分の大切なものを追い求める求道者だからであり、おそらくはその姿は作者が伝えたいメッセージそのものであるからだ。岡田芽武の言い分が気に食わなかったのはたぶん私がバトルのカッコよさとかいうものには微塵も興味がないからだったのだろう。

高河ゆんは自己のメッセージを長編の中でそれを紬ぎ出していく能力には欠ける(ひょっとしたらその限界を越えるかもしれないから"Loveless"は期待なのだけれどもね)。が、そのときどきのシーンにおいて特定の種類の思想を背景に強い感情を伴った言葉を述べる。ゆえに私にとって高河ゆんはかけがえのない作家だ。

鬼頭莫宏、世間で今注目されているのは"ぼくらの"であろうけれども、私はあれはいささか特殊だと思っている。登場人物多すぎて描ききれるんだろうか? 少なくとも、どこかで目にした「登場人物は特定の設定、性質、役割を背負った人形」という評は一理ある。そういうわけであれは完結するまでは生温かく見守ることにしているから割愛する。

さて、では"なるたる"であろうか。"ヴァンデミエールの翼"であろうか。衝撃的な描写には事欠かないし、人形趣味も容易に見て取れる。けれども、私が鬼頭莫宏を読むのは、全作品に通奏低音として響く彼の倫理思想と政治思想に興味があるからだ。それはとても奇矯で、安易に賛同はしかねるけれども。全ての創作は、"ぼくらの"まで含めてその思想表現に過ぎないと考える。強い思想と感情が先にあり、それが世間に受け入れられるかどうかは別なのではないか(なんかロボットを出してみたら受け入れられてしまったにせよ)。その意味で、鬼頭莫宏高河ゆんであり岡田芽武ではないか。