世界線航跡蔵

Mad web programmerのYuguiが技術ネタや日々のあれこれをお送りします。

2007年07月07日

何かいろいろな宗教

疑似科学批判系のサイトを見て回っていたら、当然のごとく宗教的情熱に基づく疑似科学にも触れていて、なんとなく私の信仰について書いてみたくなった。

私は特定の宗教的組織に直接には与していないという意味では信仰を持っていない。何年か前に某新興宗教系列のファーストフードチェーンの店でよくお昼ご飯を買っていたとかそんな程度だ。いや、これは信仰は関係ないか。

まあいい。ただ、組織に所属しなくても教典を疑っていても形而上のことについて考えたり信仰を持ったりすることは可能だと思っている。そんなこんなでキリスト教徒を自称している。あくまでも自称だけれども。そんな立場から、私が共感するところのある宗教を列挙してみたい。

  • ファラリス教団
  • 何も変えない神の教会
  • 空飛ぶスパゲティモンスター教
  • 自然科学→真理
  • 日本的アニミズム
  • キリスト教
  • 理神論

これらについて、だらだらと書いてみる。

ファラリス教団

TRPGの「ソードワールド」の設定世界や『ロードス島戦記』に登場する教団。設定世界における「六大神」のうちの一柱、ファラリス神を奉じる。教義は「完全なる自由」で、何事にも束縛されずにいることを重んじる。何事からも自由であって、自分の希望に素直でいること。教団に従うかどうかは教徒の自由なので教団の結束は緩い。規範からも自由であることを説く結果として多くの信徒は邪悪に堕ちるので世間からは嫌われている。

「闇の中でこそ人間は自由になれる」というファラリスの箴言には結構頷くところがある。歴史的経緯、文化、その他諸々によって社会規範が形作られていて、でもその規範の中で疎外される人々はどうしても発生する。疎外を解消していくことは必要だけれども、解消されるまでその人々が生きる場所として夜の都市というのはとても有効に機能してきたんだよね。闇は大切だよ。

ソードワールドの神々の教義の設定はどれも一面の真理を描き出していて、それぞれの神の教義が全体としてバランスが取れていて、うまく設定されてるなと思う。異宗派の司祭同士の対話なんかのシーンは見てると面白い。あの世界の精霊の名前なんかはアグリッパの精霊とか北欧神話とかそんなのから持ってきて(「指輪物語」経由なのか)いるけれども、神の教義は何か元ネタはあったりするんだろうか。

何も変えない神の教会

グレッグ・イーガンの『順列都市』に登場する宗教。この神は何もしてくれない。奇跡を起こすわけでもなし、世界を創造したわけでもなし、死後に魂を救ってくれるわけでもない。何の御利益もくれないし罰も与えない。世界や人間とは没交渉で、ただ神という名前で存在(?)していると信じられているの)み。

「物質世界の苦痛からの解放」は経済の発展と福祉によって解消され、「世界の成り立ちの説明」は自然科学に取って代わられ、「精神の安寧」の役割は娯楽とサイコセラピーに奪われ。そうしてもはや必要性がなくなった神をそれでも信じるという、「信仰という価値」が欲しい人のための教会。

この教義は勿論科学としてはナンセンスで、この教会がいう神は存在してもしなくても世界には関係ないのでオッカムの剃刀によって切り落とされる。けれども、まあ、宗教としてならいいでしょう。これは私の考える「究極の神」にかなり近かったり。

空飛ぶスパゲティモンスター教

信じはしないけれども支持はする宗教。インテリジェントデザインを主張する疑似科学論者は「世界は何らかの知性によってデザインされた」と言っている訳だ。それに対応(というか対抗)して「その知性ってキリスト教の神じゃなくて空飛ぶスパゲティモンスターだったんだよ」という宗教を作ってみました、というもの。

創造科学論者からは勿論嫌われているし、そうでなくてもこの種のパロディズムを嫌う人もいる。けれども、私はこういうユーモアは好きだ。信者ではないけれども布教者ではある。

自然科学→真理

自然科学が描き出す科学的事実は方向性としては絶対的真理に向かっていると信じる宗教。科学とは単に科学的手続きにより認識世界にもっともらしい説明をつける営みではなく、それ以上のものであると考える。認識世界についての真理というものがあり、科学はその真理を描き出すための妥当な手段であるとする。

多分、唯我論と対置される思想だろう。なんか、プラトン的かもしれない。

科学哲学への理解がまだまだなのでその無知を警戒して留保は付けるけれども私はこの教義を信じるし、基本的に科学的事実に明白に反する事柄は私の信仰の対象にはならない。

日本的アニミズム

日本の動植物、森、山、川、海、建築物、その他諸々に何かを感じる宗教的感性。神道として神話を伴って体系化されてしまうとちょっと抵抗があるんだけれども、そのおおもとにある八百万の神聖なるものへの感性は私にとって大切だ。

キリスト教

三位一体や、それ以前にナザレのイエスをキリストだと思っていない時点で私はキリスト教徒かどうか微妙なのだが。ただ、所謂ミッションスクールの育ちなので、形而上の話題に関する私の語彙は極めてキリスト教的だし、キリスト教徒を自称している。何にしても「昔パレスチナにイエスという人がいて、割と良いことを言った」ということは信じている。

日本的アニミズムへの信仰との関連で、「万物に宿るそれぞれの神性」の極限を取れば究極的な一神を定義できるかも知れないと思っている。

理神論

神は世界に介入して奇跡を起こしてくれる神ではないという思想。超越的な神の存在と「自然科学→真理」を両立させるならここに落ち着くしかない。

本来のキリスト教理神論は神の創造者としての役割は認めるらしいけれども、私は信じない。世界創造の手続きも科学が明かしてくれるだろうと思っている。あるいは、虚時間とかそういうので、世界に始まりはなかったかも知れない。

以上。列挙しただけなので落ちはないよ、落ちは。

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