世界線航跡蔵

Mad web programmerのYuguiが技術ネタや日々のあれこれをお送りします。

2007年05月12日

Webの終わる日 - 遥。これ以外の何か

先日、id:uzuki-firstさんにworld wide webの終わる日についてちょっと話した。

まぁ、webはいつか終わる。ブラウザベースの枠に押し込められたユーザーインターフェースは決して完全なものではないからだ。じゃあ、どう終わるかね。私たちはその中でどうするかね。

ちょっと長くなるけど、そんなことをつらつらと書いてみる。

webアプリケーションの発展

いくつかの利点からwebアプリケーションは支持され、発展した。まず、静的なページに基づくWebサイトと動的なアプリケーションとの境界をあいまいにできるということ。これは「いんたーねっと」ブームで入ってきたライトユーザーが、「リモートに情報を送信しリモートで実行される処理を利用する」というモデルに段階的に慣れて移行することを可能とした。最初は単なる検索フォームぐらいのものを利用していて静的なページと大して変わらなかったかもしれないけれども、いつの間にかGMailを利用しているという仕掛けだ。

それから、Webメールに代表されるような"Register once, Use anywhere"というユーザーにとっての利点。webを利用可能な端末にアクセス可能でさえあればいつものサービスを利用できるということ。この利点を追求したのがSumibi.orgだろうか。

そして、新規導入や更新の度の配布・設置の手間を削減できるという企業内システム管理における利点。私は最初、企業内システムに敢えてwebアプリケーションを使うメリットって何だろうと思ったものだけれども、これを聞いて納得した。これに関してはwebアプリケーションの利点というよりはむしろ非webアプリケーションの欠点であるから、Java Web StartやClickOnceのような技術がそこを埋めてきているらしいけれども。

今咄嗟に思い浮かんだのはこんなところだけれども、まぁwebアプリケーションが喧伝された頃の記事を探せば他にもいろいろメリットは書いてあるだろう。

webの斜陽

しかし、ブラウザの枷があるが故にwebは完全ではなく、それは終わる。Tim Berners-Leeを起源としない何かに取って代わられるのか、Berners-Leeの子どもたちが現在とは異質な何かに進化するのか。

ある種の価値観やビジネス戦略とユーザー層のあり方がAjaxに代表される技術が融合したとき、ブラウザという枷が少しだけ緩んだ。だからもう1人のTimの言うweb 2.0という呼称が受け入れられたのだろうと認識している。この流れの果てにweb 3.0がweb 1.0とは異質な生態系を築いて1.0を終わらせる可能性はあるだろう。その場合はweb 1.0は終わるというか、gopherの様には残るだろうけれども。

webの終焉

webはどう終わっていくのか。

現状のwebのあり方を層に分解してみれば、目に見えるのはTCP/IP, HTTP, HTML, 表現文化, 利用文化だ。IPより下がブラウザから目に見えることは多くない。表現文化とはいわゆる「パンくず」や「リンク文字列に付く下線」のようなユーザーの理解を促進するためのプロトコルで、要するに「Jakob Nielsenの世界」だ。利用文化とは利用者にとってwebは何であるか、利用者はwebで何をするかということで、ブロードバンドの浸透*1が変容させ、PCと携帯電話で異なっている例のものである。

利用文化は変わり続けている。ブログにプライバシーをさらけ出すことにかつて誰が価値を見いだしたろう。しかし今、日本では独自のニュースや評論というよりは日記的な形態のブログが多数を占めるに至っている。企業の求人において担当者が応募者の名前でググるのはweb系では最早常識だし、技術者の場合は会社によってはブログで情報を発信していないという理由で書類選考に落ちるかもしれない。

webの利用文化は社会構造を巻き込んで変わっていくだろう。例えば、geetstateではGeetの登場、ライフログの普及、非透過的複製物の違法化が仮説されていて、その前提となっているのは今日的な労働という概念の消滅、プライバシーという概念の消滅、著作権という概念の消滅である。それぞれは別の何かによって取って代わられている。ミッキーマウス法案によって著作権が死後150年まで延長されたとき、それでもまだ著作権は存在し得るだろうか。そして、動画サイトの台頭がコンテンツホルダーに本格的に価値をもたらし始めたとき、それでも著作権に意味があるだろうか。web利用文化の変容が社会をそこまで変革したとき、それはまだwebだろうか。

表現文化はもう少し変化が遅い。ハイパーリンクに下線が付くという文化は、発祥はよく知らないけれどMosaicにはあったし、今もwebユーザビリティの鉄則である。それも、DHTMLとかAjaxとか動的要素が少しずつユーザーに受け入れられてきていて、表現文化はゆっくりと変わってきている。

Amazonとの通信に失敗: 4903065065の冒頭部では著者が毎年挙げてきた「webデザインのユーザビリティ上の間違い」の変遷を見ることができる。著者は「初期に挙げた間違いが依然として残っている。改善されていない」とする一方、全体を通じて、かつての「間違い」がその後の状況の変化により必ずしも間違いとは言えなくなったケースを指摘する。

「間違い」の2005年版では未だFlashの使用が挙げられている。けれども、RIA, RIAと騒がしかったり、動画コンテンツがますます重要になったりしている今、かつての乱用とは異なりFlashは重要な技術選択肢である。Flashの効果的な利用法が研究され続けたことと、Ajaxがwebにおける動的なユーザー体験の文化を醸成したことがFlashの活躍しうる領域を広げたように思える。そうして真に動的な「webアプリケーション」が普及したとき、それはまだwebだろうか。

そして、Flash, ActiveX, PDF, CSS, JSS, JavaScriptどんな技術選択をするとしても、webの基本にあるのは従来HTMLであった。それも崩れる気配がある。HTMLによるハイパーリンクの実装というものを超えて様々な実験的な試みが行われている。

私もSecond Lifeにアバターを持っているけれども、そこの「市民」になった理由は可能性の探究だ。「Second Lifeがwebの次になるか」という議論は半年〜1年前ぐらいに流行ったもので、今は否定的な意見も強くなってきている。私の意見としては「"次"になるかどうかは分からないしどうでもいい。でも、webではないインターネット上の何かの中で人がどういう文化を築くのかを知りたいからやっている」。注目したいのは、Second Lifeであれ、splumeであれ、最早そこではHTMLは重要でないことだ。ここ1,2ヶ月ほどの間に最近登場したRIA技術で注視すべきは、HTMLによって張り巡らされたハイパーリンクを越えて世界を構築する可能性を持っていることだ。HTMLがwebにおける文書フォーマット選択肢の1つに過ぎなくなって特権的な地位を失ったとき、それはまだwebだろうか。HTMLレンダリングエンジンが重要でなくなっても、それでもブラウザはブラウザだろうか。

いつ終わるのか

こうして、連続的進化と断絶した乗り換えが絡みながら、webは終わっていくんじゃないかと思っている。去年の忘年会時点の私の予想によれば、完全に今のwebと異質になるまでにはまだ長い時間が掛かる筈だった。終わりまで「あと5年くらい」という瀧内さんの予測を「随分早く見積もってるな」と感じた。けれども、最近の動向を見ていると想像以上に世間の動きは速い。

気がつけば今までの開発経歴の半分近くをwebアプリケーションに携わっている身である。webの終わりに危機感を感じつつも、「特異点は近い」と楽しみにしている。技術が可能とすることを追求し続けてそのためにはwebを終わらせることも辞さないような、web屋としての限界を踏み越えるような、そんなマッドweb開発者になりたい。


*1あ、言った端からIPより下が出てきた


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