世界線航跡蔵

Mad web programmerのYuguiが技術ネタや日々のあれこれをお送りします。

2006年03月26日

私は乗り越える。私を乗り越えよ。

岩城保さんの「左利きは身体障害か」を読んだ。岩城さんが挙げる3つの段階にあわせて、私が為そうとしているGIDへの取り組み、活動家というものの意味あいについて考えてみる。

性同一性障害者への認知を広げ、社会適応を良くするということを考えたとき、前例として参考になるのは黒人公民権運動、フェミニズム、ゲイ・リベーションである。ところで、この組合せには見覚えがある。黒人、女性、同性愛者といえば合衆国の報道における3大圧力団体である。

これらの人々については、認知運動が成功してきたが故に圧力団体が機能し得ている。かつては機能しなかったし、いずれは機能しなくなるだろう。

段階1: 認知されていなかった状態

岩城さんの論では「左利きは本当に身体の障害だと考えられていた」状態に当たる。whiteとcoloredの区別は自明視され、あらゆる局面における性別による役割分担が自然なものとされ、同性愛者は異常な性的嗜好なのであった。

この段階では活動家が声を挙げることには非常な意味がある。その声を聞かなければ普通は何も疑問を感じないからだ。そこに問題があることすら意識されない。活動家の声を通じて、その主張に対する賛同であれ反発であれ、初めて問題が意識の中に昇ってくる。

声を上げ始めた人々の中からは過激な活動家というものも出てくる。どう考えても、一部の熱狂した人々を除いては共感よりも反発を感じるだろうというような、奇矯なやりかたで主張しようとする。でも、こういう人達もこの段階では有意義となりうる。注目を集め、ここに何がしかの問題があるのだとはっきりと認識させてくれるからだ。

そうして議論が巻き起こり、最早何かかそこに問題があるのだという点では異論はなくなる。賛否はともかく。そうした中で、個々の事例を通じて徐々に問題の改善が始まる。"The private is political"はここにも通じるかもしれない。

段階2: 認知された状態

そうして、「左利きは障害ではなく『普通のこと』」となる。肌の色も性別も性的指向も人間のバリエーションの1つでしかなくなる。

しかし、この段階においては人々はかつて問題が存在した事を忘れてはいない。だから、「左利きは身体障害」と言えば「左利きに対する偏見だととらえられる」。実際、「左利きは身体障害」だと考える人もまだまだ残っている。

「左利きは身体障害」を再び主流にしないために、活動家が声を上げつづけることに意味がある。でも、共感を集めていくことも重要なだけに、過激なやりかたは逆効果のほうが大きいかもしれない。

この段階こそが、擁護団体が圧力団体として機能しうる状態である。擁護団体の主張は一般的に妥当なものだと受け入れられているが、段階3のように「わざわざ騒ぎ立てることがおかしい」というほどではないからである。

黒人や女性や同性愛者は今、この段階へかなり移行しつつあるよう思う。しかし、フェミニズム活動家を見て、何故「あのおばさんたち」がああして声を上げ続けるのか本当に理解できないという若い層もいる。その意味では、フェミニズムは部分的に次の段階への移行が進んでいるといえるかもしれない。

段階3: 忘却された状態

この段階へ移行するために活動家は取り残される。ここでは、かつて議論されたことも忘れられる程に左利きであることはごく自然なバリエーションとされ、実際のところ左利きによる不自由も解消され切っている。だから、今さら「左利きは身体障害だから保護せよ」と言えば、「左利きを偏重しすぎ」と見られるようになる。活動家の使命は終わる。

私は実態をよく知らないので深くは踏み込まないが、この段階に近付くにつれ、擁護団体の類は差別の解消よりはむしろ自己の存続を目的化し、かつて必要だった保護措置を既得権益として悪用したりするらしい。理論上、そういうこともあるかもしれない。

何かの特性を生まれ持っていることが、「社会生活上いかなる意味でも障害とならない」という点で、この段階が差別解消の理想形である。

段階2においては、未だ「差別」とされている扱いを自然なものだと考える人々が残っている。それに、保護措置を通じてさしたる不自由は無くなっても、保護措置が目に見えるうちは「左利きであること」「黒人であること」「女性であること」「同性愛者であること」を意識させられざるを得ず、故にこれは「右利き」「白人」「男性」「異性愛者」と同じではない。

段階2における問題

もし、各段階がすっきりと分けられているものであれば楽だったかも知れない。しかし、現実には先にフェミニズムの例を挙げたように段階は混在しうる。

同性愛者を特に嫌悪している訳でもない層から、純粋に「同性愛者は本当に差別されているのか」という問いが発せられる。これに対して同性愛者団体は「あなたは異性愛者であることを意識させられてきたか」「私の恋愛は正しいのかと悩んだか」と回答する。たとえ、同性愛者たることが否定はされないにしても、悩んだ末に同性愛者としてのアイデンティティの確立が保証されるとしても、友人と恋愛談をするたびに同性愛者たることを自覚させられ、「同性を好きになっていいのか」と悩むプロセスを強いられる点で同性愛者は異性愛者と対等ではない。

上のような同性愛者団体の回答は「わざわざ騒ぎ立てる」という点では段階3への移行を阻害するものである。しかし、残存する潜在的差別をほり起こして段階2を完成させてゆくとともに、段階1への逆行を食い止めるためにはこうする他にない。

私は以前、グレッグ・イーガンの「繭」の評において「潜在する差別問題」「隣人が同性愛者であることに全く嫌悪感も感じないのになぜ」と問うた。それは、私を含む「繭」の読者が段階2の住人であり、まだ段階3を近未来として実感するには遠いからである。私がその評で自問するGIDのケースにおける私の感想は置いておくとして、基本的に「繭」とは、段階2が持っている問題点を巧みに描き出した作品であると言える。

私の立ち位置

さて、性同一性障害は、左利き、黒人、女性、同性愛の後を追いながら段階2へ移行しようとしている。私が為そうとするのは、段階3への地ならし、段階2を完成せしむることへの一助である。

私は、性同一性障害者当事者団体に積極的には関わらない。なぜならば、そういう団体無しには性同一性障害者が社会に適応できないという状態は段階2の中でもかなり段階1に近いからである。

私は、そうした団体や虎井まさ衛さんに代表されるような先駆者たちの業績の上に、今の生活を築いている。彼らが社会の認知を広げてくれなかったら、私は今のようではありえなかったろう。しかし、本当に差別が解消されているとしたら、彼らのような偉大な功績無しに普通の社会生活を送ることのできる状態でなければならない。彼らの偉業は、偉業によってしか生きてこられなかった社会の象徴でもあるのだ。

  • 少し前まで、性同一性障害者は運が良く才能に恵まれた人が努力したケースでなければ生きていけなかった。
  • 今は、運が良いか、才能に恵まれているか、努力した人ならば生きていけるようになってきた。
  • だけれども、特定の性質を持って生まれたというだけで、このような条件を課されるのはまだフェアとはいえない。
  • 運が悪くても才能が人並でもそこそこしか努力しなくても、そういう人が社会生活を送れるようでなくてはならない。

だから私は、尊敬する先駆者のような偉業を達成しないことを以って、彼らを乗り越える。彼らのように偉大でなくとも、なんとか地味に生きていける時代がやってきたことを、私の人生によって証明する。それを記録するために、私は私をdumpする。私のような凡人の人生のたくさんの積み重ねの上に、段階2は磐石となり、段階1は遠くなり、段階3が近付いてくるだろう。

乗り越えること

こう言われた事がある。私は「活動しない活動家」であると。その通りだ。私は意思を持って自覚的に、平凡でも生きていける程度に差別の解消された社会を確立しようとしている。この自覚性は段階3とは相容れないものだ。

だから、私は望む。私がわざわざ性同一性障害者が地味に生きていけることを証しようとするその姿勢を理解できない世代の登場を。それほどに「地味に生きていけること」が当然となり、私を「肩肘張りすぎなハバァ」と言ってくれる世代が現れることで、私の行いが報われることを。それが、段階3の始まりとなる。

私は、私が依って立つ先駆者のやりかたが正しくない時代を作り出すことで、彼らに恩を返す。だから、私が作りたいと願う時代に生まれる人々は、どうか私のやりかたが正しくない時代を作ることで私に報いてほしい。

私は乗り越える。私を乗り越えよ。

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