トラックバックの最適解は記事依存である

nobuhiro-nさんの「 そうだ、猫をかぶろう 」の一連の記事は、「私が同意できない意見がよくまとまった記事」という意味で私にとって貴重なリソースだった。

認識の相違

nobuhiro-nさんの「 そして更に 23:06 」にはこうある。

マツナガさん以下大体の意見は運営側のもので、訪問側としたら、というのはあんまりない。ただ、訪問側も含めた考え方ってのがサイトをコミュニティの道具としている関連文化圏的な考え方とも言えそうだ

これが正しいとしたら、私は"関連仲間文化圏"を誤読していたことになる。松永さんが専ら運営側の論理で書いているというのは同意で、で、私は「 トラックバックの想定する受益者 」というのを書いてみた。でも、私の論は、極端に言えば「"言及リンク文化圏"のトラックバックは読者のためのもの(情報提供の1手法)」「"関連仲間文化圏"のトラックバック送信先執筆者のためのもの(仲間へのコミュニケーション)」なんね。どうも、私とあちらでは事実の認識が入れ違っているように思う。

nobuhiro-nさんも言及している「 『言及リンク文化圏』タイプは検索サイトが好き、という仮説 」を読むと、"言及リンク文化民"はリソースを「探したいと思ったら、自力で探せる」と書いてある。これも私の考えとは異なる。私がものを調べるとき、Googleで検索なんかしたって、キーワード検索の限界で全然関係無いサイトばかり出てきて役に立たなかったり、そもそもインデクシングされていなくて情報が出てこなかったりする。検索が難しい。だからインデックスを最適化するために、関連性の薄いリンクや、松永さんのいわゆる「一方的にアクセスを奪う」(つまり、逆方向の)リンクは好ましくないのだ。これが モヒカン族の価値観 である(私ゃ モヒカン族じゃないらしい けどさ)。

上で触れた御二方の論を読むに、極めてプリミティブな価値判断のレベルでは私も完全に同意できるものであるように思う。しかし、事実の観察や結論は食い違っている。"関連仲間文化圏"に関する事実認識については、きっと御二方の方が真実に近いだろう。

仮説

何故食い違ったのだろう。それで考えてみるには、探している情報の粒度や絶対数が異なるんではなかろうか。全ての"言及リンク文化民"がそうとは言わない。少なくとも、私を含むある種の"言及リンク文化民"は、極めて特化した、絶対数の少ない情報を探すことが多いので、それゆえ認識がずれるんじゃなかろうか。

聞いてみたい。「みなさん、日常においてサーチエンジンで検索を掛けるとき、何件ぐらい結果が出てきますか」。私の場合、極端にわかれる。キーワードをそのまま入れると1桁の場合が珍しくない。下手をするとロシア語サイトが1件でてくるだけで読めなかったりする。で、ほんの少しだけ一般的な用語に置き換えるとヒット数が爆発する。実数のbeta expansionにおけるフラクタル構造の出現とか、2005年前半に於いてCMI9880をLinuxに認識させる方法とか。探している情報がかなりマニアックだったりピンポイントだったり、細分化していてその分野の研究者自体が世界に数人しかいなかったり。

私自身が発信する情報はそこまで希少でない場合が多いけれども、Rubyでrho methodを解説している日本語サイトは多分私のところだけだし、AKS(L)素数判定法のrevised versionの解説も然り(こっちはWikipediaに転載したから正確には私のとこだけじゃないけれど)。

ともかく、そんなわけで、検索エンジンが全然当てにならないのが分かってる。だから、インデックスが最適に保たれる世界であってほしい。上に挙げたのは必ずしもblogの記事として書いたものばかりじゃないけれど、仮にblog記事だったとして「実数つながり」とか「サウンドチップつながり」とか「素数つながり」で他所へトラックバックを送ったらますますwebを検索しづらくし、また、有益な情報が埋もれさせる恐れがあると思うのだ。

私が「ローゼンメイデン第○話の感想」というような情報より粒度の細かく絶対数の少ない情報を念頭に考察したことが、"関連仲間文化圏"の意識を誤読することにつながり、また"言及リンク文化圏"と「読者を意識してトラックバックを送る人」に相関を仮定した理由ではないだろうか。

読者のためのよいやり方

nobuhiro-nさんの言うように、"関連仲間文化圏"のやり方が「便利さと楽しさを産んでいる」ことに関しては同意する。、"関連仲間文化圏"のコミュニティの方がより「がっかりしない」トラックバックを提供しているという優越性の主張には、私の個人的な経験には反するし、同意はしがたいけれども、どのみち定量的観察はないのでなんともいえない。それに、これもまた私がより細かな粒度で情報を観察しているが故の感覚の偏りかもしれない。

どちらの文化がより優れているかという議論は非建設的であるし、 どちらも尊重するべきだ 。でも、私がした勘違いを教訓に、読者にとってよりよいやり方を提案することはできるかもしれない。すなわち「粒度と性質に応じて方法を選択せよ」。

例えば、同じ「ローゼンメイデン」関連にしても、「アニメ第○話の感想」を色々読みたい場合と「コミック第5巻 p.85のユング的解釈によるPEACHPITの心理分析」を探している場合では適切なやり方は違う。前者には「トラックバックリング」が有効に働きそうだ。後者には有害と思われる。

記事の内容がどちらかといえば情緒的なものである場合や総合的な批評・分析であるような場合、関連する記事の間にトラックバックが行き交うことで、読者を適切に誘導することができ、共感の増幅を産み、また論自体を膨らませる役割を果たしそうだ。第一、第二の作用については既に形成されている"感想系ブログ圏"はその代表格であろう。第三については、今回のトラックバック論争それ自体が松永さんの記事を中心にトラックバックの力で繋がり発展する例となっている。第三作用に着目すると「トラックバックセンター(仮)」という案に結び付くのであろうが、第一、第二作用も体験している"関連仲間文化圏"から見れば代替案たり得ないのだろう。

一方、記事の内容がどちらかといえば論理中心のものである場合や、極めて細分化された領域を扱う場合、単に関連しているという程度のトラックバックは読者に求める価値を提供できず、むしろノイズとなってしまうのだろう。価値を提供できそうなトラックバックは多くの場合、"先行研究"たるトラックバック先の記事に言及している。「言及通知でないトラックバックが存在する理由が分からない」という意見は、先行研究の調査を大前提とする学術論文の書き方に基づく発想ではなかろうか。

……であるとするならば、松永さんのいわゆる文化圏の違いとは執筆する記事の傾向の差異に由来するものであろう。ただ、ブロガーが1つの分野1つのテーマだけを扱って記事を書いていくとは限らない以上、文化圏の不文律として学習した1つのやり方だけに固執するのはトラックバックの使用法を最適化していないということにもなる。

以上は仮定に仮定を積み重ねたものに過ぎないが、あるいは、執筆傾向の差異という形で漠然と文化圏を形成しつつも誰もそれにとらわれずに、適切なときに適切なトラックバックのやり方をとり、それを認められるようなwebが望ましい姿なのかもしれない。

まとめ

なんか、混乱した長文だ。適宜推敲したいと思う。

いまはまだ"言及リンク文化圏"に立つけれど、もうちょっと考えがまとまったら、ことによるともう少しだけ"関連仲間文化圏"に寄るかもしれない。あるいは記事ごとに態度を切替えるかもしれない。いずれにせよ、"関連仲間文化圏"のやりかたがその中で価値を創出しているのは明らかだ。従って、どの記事に関しても、無言及トラックバックがやってきても「読者にとって明らかに無価値/冗長」と思わなければ有り難く頂戴する。