セクシュアルタームを語るということ

ウィルスバスター2006のURLフィルタリングでは禁止すべきカテゴリの選択肢として「アダルト/成人向け」と「性教育/同性愛」がきっちり分けられていて、感心した。とか、いろいろあって、 性的マイノリティにとってのセクシュアルタームの問題 を改めて考えてみた。セクシュアルタームを語る性的マイノリティは他からどう見えるのであろうか、と。

性的マイノリティとは何かといえば、性的マジョリティが想起しがちな世界像における逸脱、非典型例ということもできるだろう。その「想起しがちな世界像」と「実世界」とのギャップに落ち込んでしまう人間が性的マイノリティであると。そして、そのギャップが何故生じるかと言えば、その多くは無知や誤解による。例えば、ホモセクシュアルとは、人間は必ず異性を恋愛の対象とするものだという誤った認識と現実とのギャップに陥る人間である。

このギャップは、多くの人間が実際にヘテロセクシュアルであるということ、ヘテロセクシュアルを当然とする文化の中ではバイセクシュアルは同性への愛情に無自覚でありがちであると言うこと、そのような文化ではホモセクシュアルは自己の性的指向を公にしないことも多いと言うこと、によって形成される。情報の不足が、マジョリティをして、ときにはマイノリティをすら、誤った世界像を抱かしむる。

であるから、このギャップを解消するための方策は単純である。迷信を振り払うために古くルネサンスより行われてきた活動、啓蒙である。科学的な知識を体系的に提供することによって、問題の多くを解消することができる。当事者団体の主張するような権利について理解を得られるとは限らず、例えば、 同性愛行為は認められない とするような意見もあり得る。それでも、少なくとも科学的な知識を前提として性的マイノリティが直面する問題を提示し、いくらかの理解を求め、時間を掛けて話し合っていったとき、それでも感情的な反発しか示さないということは希だろう。時間はかかるかも知れないが、真面目な問題として扱い、考えて貰えことは可能であると思う。経験上もそうであったし、何より私は人間の理性と共感・いたわりの力を信じる。

ここで問題となるのが途中過程である。改まって話し始めない限り、性的マジョリティはセクシュアルタームを正面から真面目に扱うことに慣れていない。改まって話し始めてすら真面目に取り扱えないかも知れない。大学の講義で何度か性的マイノリティを扱う場があったが、受講する学生の全てが語られていることを真面目な問題として捉えていたとは感じられなかった。性は何か「うわついた」「語るべからぬ」「自ずと知れ渡っている」ものであるらしい。しかし、性に対するこうした扱いは誤解を助長しこそすれ、決して解消などせぬ、科学的態度とはかけ離れたものだ。

体系的に知識を提供する段階で、用語を用いなければならない。ところが、聞き手の頭の中で用語には何かしら淫猥なニュアンスが結びつけられている。性的マジョリティにとっての性とはしばしば猥談かもしくは沈黙・隠蔽の二者択一であって、それ以外の扱い方を心得るのはなかなか大変なのである。

語り手がこの新しい扱い方をサポートする方法はいくつかある。1つには、頭ごなしに学術用語の嵐をぶつけること。その中に紛れたセクシュアルタームは学術用語のニュアンスに影響されていくらか拒否感が薄れるかも知れない。ただし、これは聞き手に心理的な耳をふさがせてしまうかも知れない。1つには、真摯な態度で共感に訴え、理屈でない面から真剣な態度を引き出すこと。これは一対多では語り手の技量を求められる。

私は、性的マイノリティが自己の問題について真剣な扱いを受けられる土壌づくりの一環として、微力をも省みず、このサイトや Wikipedia を通じて、性に関する科学的で体系的な知識の提供に挑戦し続ける。が、このサイトのアクセスログを見るにもやはり、性に関する問題はどうしても興味本位でうわついた態度の関心を引き寄せやすいらしい。そういう人から見て、性的な話題を提供することに掛ける私の情熱はどのように解釈されるのだろうね。ちょっと想像すると嫌なものがある。

色々考えたけれど、まぁ、誤解したい人にはさせておけばよいかというつまらない結論に至った。それにしても、私が性に関して抱く浮ついた関心といえば、現実とは切り離されたやおい妄想ぐらいであって、それはリアリティも感情移入も伴わない。私にとってセクシュアリティは感情移入不能かもしくは学術対象であって、いずれにせよ現実の感情との結び付けが困難であるのだ。うちのサイトに色んなキーワードでググってやってくる人たちの考えることを一度、じっくり話を聞いて理解してみたいのだけれど。