オタクの異文化性

池袋の新名所 乙女ロードって何ださぼさん が日記で怒っていた。「その書き方はないだろう」と。

元記事を読んでみると、うーん。確かに、主観的だなぁ。視点によるサンプリングの歪みって言うのを考慮せずにセンセーショナルに書き立ててる感じはある。まぁ、元が 日刊ゲンダイ だそうだから、こんなもんでしょ。

唯一激しく頷くのは、「染めていない黒髪」ね。大学のサークルもオタクの集団だったけれど、染めてるのは私だけだったし。オタクの集まりに顔を出すたびに「黒髪多いなぁ」という印象は受ける。「一様に小太り」っていうのは外れてるでしょう。多分、記者が「隠れオタク」タイプを見抜けるほどオタク文化に染まれていないだけで。ガリガリの子も結構居るし、あと私が感銘を受けるのは「コスプレのためにスタイルに気を遣っている」タイプね。

それから、記者の指摘する形象が「もてそうにない」ところにつながるかどうかは議論の余地がある。というのは、私の仮説によればオタクという群は一般人(オタク用語)の群におけるドロップアウトではなくて、完全な異文化人であるからだ。この仮説は秋葉原で一様に「オタク的な服装」が見られる、しかも、ときに努力してその理想型に近づこうとすらしているという現象をうまく説明するので気に入っている。オタクの文化は一般人自体のそれと同様に一定の水準で自己完結的な文化圏を構成していて、そこにあたかも解析接続のように侵食的に「もてる/もてない」という軸を導入することが意味を成すかどうかは自明ではない(数学用語)。所詮、解析接続は解析接続だしね。非自明性に関する指摘としては、Paul Grahamの『 ハッカーと画家 』収録「どうしてオタクはもてないか」も面白い。

ただし、オタクが非オタクを一般人と呼ぶこと自体、オタク自身が無意識にオタクと一般人とを包含するより大きな文化圏——数学屋の感性ではsuper-cuultureと呼びたいけれど、社会学的にこの用語は適切?——の存在とそこへの所属を認識していることの証明に他ならない。とすれば、確かに解析接続されてしまうだけの基盤を提供しているのはオタク自身なんだけれどね。16元数にゼータを持っていこうとか考えたら、容易じゃないでしょ? 実際のところ、できるのかどうかは知らないけど。

……と、思索の生煮えな部分を無理に文章にしてみたら、このままいくとソーカルに小一時間問いつめられそうな勢いなのでやめるけれど。ただ、1つ確かなのは表象的なオタク評論もオタクの自己弁護も十分に出そろったところで、あとはもっと社会学的視点からの踏み込みが必要とされているな、と。権力構造の問題については、『 フェミニズム・サブカルチャー批評宣言 』もあるけれどそれ自体が主題ではないからちょっと物足りない。それから、私としてはここらで一般人の文化人類学者に文化人類学フィールドワークの手法に基づくオタク評論を書いて欲しいな、と。