数学の難問奇問

数学を専門に勉強したことのある人間なら誰でも一度は疑問に感じるであろう。何故、世間では「数学は答えが1つ」という慣用句がまかり通っているのか。以下、数学系の人には耳にタコができているようなどうでもいい話です。

さて、先の疑問に簡潔に答えるなら勿論「世間一般、特に義務教育レベルではその程度の数学しか教えないから」である。「答えが1つ」と言いたがる人がイメージしている「数学の設問」というのはつまるところ数学を議論するための前提知識や道具立てレベルのものでしかないのだから、そりゃ答えが1つで当たり前だろう。「『峠』のよみがなを書きなさい」という設問や「日本国初代総理大臣の氏名を答えよ」っていう設問だって答えは1つしかないだろう。そういう知識を前提として初めて、『塩狩峠』を読み込んだり、安重根の位置づけについての様々な意見を吟味したりできるんだろう。それを、基礎知識だけを取り上げて「答えが1つしかない」って批判しても仕方ないではないか。

じゃあ何故に、その程度の数学しか教えないのか。その知識を前提としたもっと面白い議論に児童生徒が触れる機会を何故作らないのか。少なくとも、作られているとしてもそれが一般的でないのか。1つ考えられるのは数学科教諭の怠慢であろう。あるいは、それ以上のものを与えることに強固に反対する意見があるからかも知れない。

前者の面は、一部にきっとあると思う。しかしまた、後者の面もあるように思える。だって少しでも「前提知識の上の面白い設問」を作って児童生徒に与えようとすると、すぐにある種のお役人や保護者やその他諸々から難問奇問だといって批判されるのだもの。

習ったことを前提に自分なりに考えたり感じたりすれば解ける設問だよ? それのどこが悪い? この種の批判は特に入学試験の問題に対して顕著だけれど、「現代文の設問では、学校教科書に載っている文章以外を題材にしてはいけない」なんて規制はナンセンスだろうに。それを規制したら、そりゃ答が決まり切った基礎知識を問うしかないだろうに。

学校数学教育に、もっと難問奇問を。東大2次試験1999 大問1は見かけが易しそうだったのであまり批判されなかったが、あれなんかは最高だ。そう。難問奇問と言ったって、私が必要と言ってるのはこの程度のものに日常的に触れさせるという、ただそれだけのことに過ぎないのですよ?