人生における敗北

今までも何度か、書いたことがある。

私の人生は失敗であり、敗北であった。私は決してこの人生に納得することはないであろう。どうして、GIDという状況下に生まれたのか。どうして、GIDに対してもう少し理解の進んだ世に生まれなかったのか。あるいは、どうしてGIDが何のハンディキャップにもならないほどの圧倒的な才能を持って生まれなかったのか。あるいは、どうしてGIDというハンディキャップの下では到底生きてこられないほどに無能/不幸ではなかったのか。

私はこれに納得しない。

生きれていれば良いことも悪いこともある。しかし、この一瞬一瞬に積み重なる性別違和の下での生活という悪いこと——マイナスの前に、一生に間に体験できるプラスがいかほどのものであろうか。そもそも、プラスはマイナスをうち消すのか。良いことがどれだけあったとしても、起こってしまった悪いことは消えはしないというのに? だから、私が納得できないマイナスが存在した時点で私の人生は私にとって"無かったほうがましなもの"であり、失敗であり、敗北なのだ。

……で? それが何だと言う? 敗者は潔く舞台を去れなどと誰が決めた? 敗北が確定しているなら、あとは勝とうと足掻く必要もなく、、ただ楽しんだ方が得ではないか。この人生が無かったほうが遥かにましだったが、その点については最早取り返しがつかない。今この瞬間に死んだところで生まれなかったことにはならないのだから。だったら、生きているが故にできる楽しみを味わったほうが得ではないか。プラスはマイナスをうち消さないが故に私の人生は敗北だったが、マイナスもまたプラスをうち消さないが故に私が生涯不幸であるなどとということはあり得ない。敗北が確定したなら、残りの人生は余生ではないか。余興だ。好きに生きればよい。取り返しがつかないならば、取り返そうとしなくて済む。気楽である。自由である。これより後は、私が法だ。

4年前の夏、このままGIDという問題を見据えずにただ迫ってくる苦悩から逃れるためにアルコールに溺れて死んでいくのか、それとも、GIDを受け入れて生きるのかを、決断した。その決断から演繹される結論は以上である。

さて、そのもとに、私は私の残りの人生=余興の中で成すべき目標を次のように定めた。

長期的目標

私にとっての正義を実現すること

戦略

私の目の前に横たわる不正義とは、性同一性障害者に対する抑圧、選択肢の限定、だ。よってこれの改善の一助となる。

戦術

私にできることなどたかが知れているが、私がGIDを受け入れて生きれば、その道筋は自ずと当事者にとっての1つの人生モデルを提示することになる。選択肢を少しでも増やすことになるだろう。故に、私は"やりたいことをやって生きる"。

また、モデルの提示を進めるために、ネットワークの危険性を鑑みて差し支えない範囲で、私の日常を積極的にネットワーク上に暴露していく。

中期的目標

私は刺激的なことが好きだ。私はエキサイティングに生きる。

戦略

今の会社のマネージャーに出会えたことは幸運であった。ソフトウェア開発のリーダーとしてたぐいまれな才能を持つ。そして、近い将来、起業も考えているらしい。こういう人が大成する手伝いをできれば、きっとエキサイティングだろう。これまでもそうであったように。

戦術

努力を惜しまず開発者として研鑽し、彼の成功を手伝えるだけの実力を維持・増強する。そして、そのステップである目の前のプロジェクトを確実にこなしてゆく。

また、現在足かせとなっている鬱・パニック障害を何とかして改善する。

短期的目標

プロジェクトをこなし、鬱に負けないために、日々、ストレスをためない生活をする。

戦略

先のことは分からないのだから深刻に考えずに気楽に楽しく生きる。

戦術

楽しいこと、やりたいことをやる。つまらないこと、やりたくないことは可能な限りやらない。

目の前の楽しみを我慢しない。食べたければ食べる。買いたければ買う。勉強したければ勉強する。家訓に曰く、「食べるときはただ味わうべし。痩せる方法は後から考える」

-->私は飽きっぽいので、1つの楽しみにだけ囚われて他が見えなくなる心配はないし、食べて太ってもこんどはダイエットしたい欲求に身を任せれば良いだけだし、買い物にも飽きっぽいので遣いすぎる心配はないし、働きのが好きで仕方がないので怠惰に陥る心配もない。したがったこの方法は妥当と考えられる。

要約

私にとっての正義を実現するために、私の近視眼的欲求を満たし続ける。深くは悩まない。先のことは考えない。ケ・セラ・セラである。

もっと短い要約

"私が法だ"