ratio - irrational

秩序あるいはジェンダー規範とそれに基づく諸制度と、そして運命。それに対する怒りは私の中にくすぶっている。しかし、無批判にその感情に従うことが正しいとは考えられない。

GIDをしてマイノリティたらしめているのは既存秩序だ。それが無知と認識の欠如によるものであったとしても、性同一性と身体とが一致するという経験則の無責任な一般化とその上に構築された文化と秩序とがGIDをマイノリティとしている。

この文化と秩序に対する態度は人それぞれだ。

GIDであって、自己の性同一性に自己のアイデンティティを強く拠っているような人は、この秩序を自明と見なし、そこからの逸脱やそこへの批判に反発するだろう。身体やジェンダーロールから離れた性同一性の概念それ自体が理解不能であり、そこへの批判的な分析も科学的な考察も受け入れがたく感じるだろう。彼らにGIDを少しでも理解してもらうための方便として「心の性と体の性の不一致」という表現は有効に機能してきたと思われるが、同時に誤解の拡大をも産み、また一部ではより強い反発をも招いてきたと思う。

GID当事者であって、この文化の中で自己を自己として存在せしめることをすら抑圧されてきた人の中には、この秩序の抑圧的な側面にのみ着目してこれを破壊することで問題を解決しようとする人もいるだろう。例えば、性差廃絶主義者だ。あらゆる性差を否定し、かつて性別に応じて規定されていたジェンダーパターンが無秩序の中に放散してしまえば、表面的にはGIDの、少なくともTGとよばれる集団への抑圧は消滅する。というよりも、TGという概念自体が消滅するだろう。しかし、それは自己の身体そのものへの違和感を強く感じているTSと呼ばれる集団にとっては問題の解決ではないし、問題の隠蔽になるかも知れない。それは文化の破壊でもある。そして、一般に信仰されているよりもより狭い領域に限られるにせよ、アプリオリな性差が存在する以上はそれをも否定することはGIDへの抑圧と同様に反自然にして不当であると考える。

また、この秩序に組み込まれることを望む当事者もいるだろう。例えば、意識的に性同一性に合致したジェンダーロールを演じるタイプの人がそうだろう。この秩序においては、両性の間に存在するギャップを乗り越える(「トランスする」)ことに成功しさえすれば、セクシュアル・マジョリティに対して機能しているのと同様、「私は女/男である」という自己規定に基づく自己同一性維持への文化的支援を享有することができる。TGの多くが日常に感じているような(そして非当事者がなかなか意識しない)、日常生活のあらゆる局面における性差確認の儀式・慣習が内面化されたジェンダー規範の機構を通じて自己存在の維持を助けてくれる。性同一性に合致しない生活の中では存在を否定し消滅させようと作用していた力が、方向を変えて、本来の設計通りポジティブに機能してくれる。

そしてまた、組み込みを批判する立場もあるだろう。"性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律"を「既存の男-女概念への当事者の再吸収、およびそこから外れる者の排除を目指している」と批判する意見などはそうだろう。あるいは欧米に比べて日本では"Transgendered"ではなく"Gender Identity Disorder"という概念が強調されるのは何故かと問う意見もそうかもしれない。広範なTransgenderedの広がりの中で、男-女の二項に基づく言葉で説明可能な者だけを"Gender Identity Disorder"と規定し、それによって既存秩序を本質的なところでは温存しつつ、その為に説明不可能な者たちを見殺しにしようとしてはいまいか、と。この立場は、秩序の破壊を目指してはいないのだと思う。無秩序への放散は求めていない。秩序のより妥当な拡大を求めている。しかし、保守的立場から見れば現在の秩序がそのままに継続することを妨げるという点では同じだろう。

私はそのどれにも与することができない。超保守的な立場に賛同できないのはは当然だが、それ以外の立場と私の考えがどう異なるのか、まだよく分かっていない。直感的に、それは違うと感じるだけだ。

性差廃絶主義に通じかねないような、破壊的な復讐感情はあるが、そういう極端な立場には賛同できない。でも、この感情を極端な廃絶主義につなげない形で建設的な批判に変えていく方法だってあるはずだ。それでも、そういう立場ともまた私の考えは異なるように感じる。何が違うのか、まだよく分からない。