性同一性障害治療に関する倫理的議論の必要性

性同一性障害について | 治療の目的と方針の項で、性同一性障害の治療のために身体の性を改変することについて医療倫理上の議論の余地があると述べた。

極めて単純化して言うならば、その議論の余地とは次の2つの視点の間のジレンマである。

  • 本人の主体的選択に依らない(従って本人の責任ではない)、先天的(または凖先天的)で不可避な事象により、理不尽な状況に置かれ、生涯絶え間なく苦痛を感じ続けなければならない人がいる。それを解消する医療技術が存在するならば、その技術を行使するべきではないか。
  • 身体の性というものはヒトという種それ自体に深く関わっているものでもあり、それを人工的に変更することは避けるべきではないか。

これについては、十分な議論が為されているとは言いがたいものがある。

例えば患者は、前者については全面的に肯定する。後者については、(理由は各個人で異なるが)多くの場合問題ない考える。

ガイドラインなどにみる医療関係者の主張では、前者を全面肯定し、後者については判断を保留している。哲学、宗教の方面からより深い議論が為されることを期待するとしている。

一部宗教家は、神の与えた試練に人は耐えるべきであるとして前者を否定し、後者を肯定している。

感情的反発をしている一般的市民の場合、その主張は「認めたくないからその治療は認めない。何故ならば認めたくないからだ」というものだろう。その背景には、前者の主張の中で語られているような諸々の事情をよく理解していなかったり、誤解していることもある。

一方、最近は性同一性障害者に理解のある市民も増えてきている。しかし、彼らの場合、当事者による働きかけを通じて前者は理解しても、後者の問題について深く考察してるかどうかは分からない。

特に、感情的反発者はまず理性的に科学的事実を知る必要があるし、その上で既成観念による結論先行を避けて考察する必要がある。一方、当事者や医療関係者はそれを助けるべく、穏やかに根気強く説明を繰り返す必要がある。また、当事者は「故なくして苦しめられているから助けて欲しい」という論理に結論を引きずられることなく、冷静に後者の問題を考察しなければならない。

……と言っても、現状では難しいものもあるだろう。恐らくは、今後10年、20年を掛けてゆっくりと進められるべきだろう。

どんな結論になるにせよ、私はきちんとした倫理的議論が為されることを望む。

私が精神療法以上の治療を受けなかった場合、現在の状況から考えて、恐らくは次第に鬱状態が多くなって社会生活は困難になり、場合によっては自殺に追い込まれることも考えられる。しかし、もしきちんとした議論の上で「倫理的に身体の性の改変は望ましくない」ということに納得したならば、私はそれに殉じる。その時には喜んで破滅しようと思う。

どんな結論になるにせよ、私はきちんとした倫理的議論が為されることを望む。