冷静に性を語る

気になる?」を書いていてふと思った。私は平気で「ペニス」だの「クリトリス」だのと書くし、日常(off-line)でも必要でさえあれば躊躇なく口に出す。しかし、恐らくはそれに顔を赤らめてしまう人や、顔をしかめる「良識人」もいるのであろう。いや、事実いた。

私がそれらの語を使うとき、それは単なる解剖学用語であって「視神経」や「ランゲルハンス島」や「砧骨」と同列である。人体にその名称の部位が存在するという以上の意味を持たない。客観を基礎とする自然科学の言葉であって、何らの個人的な感情移入を伴うものではない。

ジェンダー論や医学に関する議論の中で性器について言及する必要のある研究者や学生、医療関係者には珍しくもない心性であると思う。しかし、どうにもこのような心性は一般的ではないようだ。

無論、(フロイドは極端にしても)性は個人の人格のあり方や人生に深く関わっている。それ故に人々は、性や生殖に関係の深い幾つかの器官には独特の思い入れを持っているのだろう。その表れとしてのある程度の羞恥心もまた、自然なことであると思う。

だが、それは個人の身体や個人の体験、或いは性に関する価値判断について語るときにのみ表れれば十分ではないか。どうして、客観的事実について議論しているときにさえその種の個人的な羞恥心や価値観が関係してくるのだろうか。

要するにそれは、先進諸国において20世紀に極度に発達した「性のタブー」と言うことなのだろう。それにしても、何か違わないだろうか。人体の一部として極めて身近に存在するものについて個人的立場を離れて真面目に冷静に考察し、言及することが何故困難なのだろうか。そして、そのくせに何故、猥談の形では頻繁に語られるのであろうか。

そう言えば、成田文広氏による研究紀要「女子学園と性的マイノリティ」性的マイノリティとはの項にもそんなようなことが書いてあった。

それが何故なのか、私は分からない。しかし、これはセクシュアルマイノリティにとっては大きな問題である。マジョリティであれば恋愛・結婚というオブラートによって性欲の存在を包み隠し、戸籍簿上の二値変数によって露骨でない表現で性器形態に言及することができる。これに対して、マイノリティはその種の便利な語彙を母国語の中に与えられていない。自分についての基本的な属性を語るために、しばしば性的な色彩の濃い用語を用いねばならない。

事実を事実として冷静に語るくらいはできて欲しいのであるが、これは理系人間の勝手な言いぐさなのだろうか。

……逆接が無闇に多い典型的な悪文になってしまった。いずれ修正したい。